その味について思い出すこと #001「コーヒー」
2016年6月3日(金)
illustration & text / カナイフユキ
野坂昭如の「バージンブルース」という歌に「はじめて飲んだ憧れの夜明けのコーヒーどんな味」というフレーズがある。コーヒーは確かに、憧れだった。
初めてコーヒーを飲んだのは、10歳のときだった。
家の両親は通販で BROOKS というブランドのコーヒーを取り寄せて、毎朝飲んでいた。その香りがいつも気になっていたのだけど、「子供には早い、10歳になったら飲ませてやる」と言われ、飲ませてもらえなかった。
10歳の誕生日を迎えた少し後の週末、お茶の時間に(週末の午後3時頃、家族全員でお菓子を食べてお茶を飲む習慣があった。幸せな思い出だ。)コーヒーを飲ませてもらった。どんな感じがしたのかはっきり覚えていない。香りのわりに薄い味だと思った気がする。
「バージンブルース」で歌われているのは、僕の飲んだコーヒーとは違って、「憧れの夜明けのコーヒー」だ。誰かと一晩過ごした後の夜明けのコーヒー。僕は「はじめて」の後、コーヒーを飲んだだろうか?喉が渇いてオレンジジュースを飲んだ気がする。たぶん。よく覚えていないけど。
※
日常的にコーヒーを飲むようになったのは、東京に出て一人暮らしを始めてからのことだ。
東京でできた初めての恋人はけっこうなヘビースモーカーで、彼が家に遊びに来た後はいつも、しばらく煙草の匂いが消えなかった。匂いだけが残っているのはなんだか寂しかった。真似して煙草を吸いたかったけど、僕は煙草を吸えなかったので、かわりに彼が好きなコーヒーをひとりでいるときも飲むことにした。それは「ネスカフェ・ゴールドブレンド」の瓶で、両親が送ってきて僕が開けずに置いておいたのを、彼が見つけて飲みたいと言ったので開けたのだ。その後は常備するようになった。そして、僕はいまだにそのネスカフェ・ゴールドブレンドの瓶を買って飲んでいる。
彼は色々なものを教えてくれたけど、僕が本当に気に入ったのは、松任谷由実の初期のアルバムといくつかの映画だけで、趣味が合わないことはお互い気づいていたと思う。自然に別れた。僕は(たぶん彼も)とにかく寂しくて、自分を選んでそばにいてくれる人なら誰でもよかったんだと思う。若い頃の恋愛の、苦い思い出、という感じ。
※
いまの僕がコーヒーを飲む状況は、目を覚ましたいときと、松任谷由実の「影になって」という歌のような気分のときだ。
「指が痛いほど残らずダイヤルしたけど、呼び出しの音だけが耳の奥に繰り返す」そんな夜に「ワードローブ散らかし、くたびれたシャツを選んで」外へ出かけ、わざと終電を逃し、街をぶらつく、という歌。
「冷えだしたてのひらで包んでる紙コップはドーナツ屋のうすいコーヒー」
という歌詞のメロディへの乗り方がとてもグルーヴィで好きだ。ひとりで街をぶらつくときには、安いチェーンのカフェで買ったとくに美味しくもないコーヒーが飲みたくなる。
大人と呼んで差し支えない年齢になった僕は、ひとりでいたいような、誰かのそばにいたいような、わけのわからない気分になることがしばしばある。いても立ってもいられなくなって、時間と体力の許す限り歩き回ってみることがよくある。そんな人になってしまった。
そうこうしているうちに色んなことを忘れそうな気がする。はじめて飲んだコーヒーの味も、恋人の煙草の匂いも。
それらを急に思い出すときが来るかもしれない。わからない。コーヒーは大人の味だと思っていたけど、コーヒーを飲めるようになれば大人かと言うとそうではない。本当に。もう少し生きてみないとわからないことがたくさんある。本当にそう思う。
●
カナイ フユキ / Kanai Fuyuki
イラストレーター・作家
TAG : Fuyuki Kanai , その味について思い出すこと , こらむ
その味について思い出すこと #006「アイスの実」
Column by : Kanai Fuyuki
雨が上がって、空はくっきりとした水色になり、乾いた風が吹いてくる。僕と母は、コンクリートで出来た大きな階段を登っている。途中で僕は「おんぶ」とせがむ。母はため息をつ…
2017.06.15 THU
こらむ
2017.06.15 THU | こらむ
その味について思い出すこと #005「ジンジャーエール」
Column by : Kanai Fuyuki
子供の頃はあまりジンジャーエールを飲まなかった。 クリスマスや、誰かの誕生日のパーティのときに出された記憶があるけれど、あの苦味が好きになれなかったのだと思う。よく…
2016.08.20 SAT
こらむ
2016.08.20 SAT | こらむ
その味について思い出すこと #004「カレー」
Column by : Kanai Fuyuki
18歳で東京に出てきた春、はじめてデートをした人が連れて行ってくれたカレー屋がある。ビーフカレーが有名で、アボカドと卵黄をトッピングすると美味しい。 ボリュームもあ…
2016.08.05 FRI
こらむ
2016.08.05 FRI | こらむ
その味について思い出すこと #003「クレープ」
Column by : Kanai Fuyuki
安いクレープでも意外と美味しいものがある。昔、コージーコーナーで180円くらいで売っていたクレープは、クリームが入っているだけのシンプルなものだったけど、生地がやわ…
2016.07.23 SAT
こらむ
2016.07.23 SAT | こらむ
その味について思い出すこと #002「アスパラ」
Column by : Kanai Fuyuki
僕は田舎の生まれで、一緒に暮らしていた父方の祖父母は兼業農家だった。米や、そのほかにもいろんな野菜を育てていた。野菜の美味しさを知ることができたのはそのおかげだ。本…
2016.06.17 FRI
こらむ
2016.06.17 FRI | こらむ
編集者・スタッフを募集しております。
おいしいだいずでくらしをゆたかに「DAYZ.」では、取材をお手伝いしてくれる編集者やライター、おもしろい企画を考えてくれるディレクターや、さまざまなジャンルのスタッフ・クリエイター・アーティストを常に募集しております。
自由な発想で、好きな土地で、好きな時間に活動いただけます。
おいしいものが好きなひと、街やひとが好きなひとなど、募集しております。
お住まい・経験・年齢は問いません。何ができるかわからなくても構いません。
気軽に まで、お問い合わせくださいませ。
編集者・スタッフを募集しております。
おいしいだいずでくらしをゆたかに「DAYZ.」では、取材をお手伝いしてくれる編集者やライター、おもしろい企画を考えてくれるディレクターや、さまざまなジャンルのスタッフ・クリエイター・アーティストを常に募集しております。
自由な発想で、好きな土地で、好きな時間に活動いただけます。
おいしいものが好きなひと、街やひとが好きなひとなど、募集しております。
お住まい・経験・年齢は問いません。何ができるかわからなくても構いません。
気軽に まで、お問い合わせくださいませ。