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ニューユタカ #006「ちょうどいい」

2015年12月12日(土)
TEXT / 藤原 亮 / フジロッ久(仮)

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

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ニューユタカ #006「ちょうどいい」

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

先日下北沢でごはんを食べることになりまして。友達と仕事の後ライブを見たあとだから軽くくっちゃべろうよってことで、どこでもなんでもよかったんですが、折角ならなにか心湧くようなチョイスがいいよね、下北沢ならちょうどいいとこが見つかるはずよね、って思いもしながら歩いていて、そのせいでどこもはっきりぴったりこなくて冷え込む路地をうろうろ。結局もう歩くの嫌だしえいっと飛び込んだ店のトマト鍋が大正解だったのでなにも文句はないんですが、下北沢、メシ屋、多すぎませんか?カレーの名店からカレーの名店までの距離近すぎませんか?歩きながら気持ちの整理つけるだけでも大変!

選べるってことは、コンビニとファミレスくらいしか夜のあかりがないぼくんちのまわりからしたらいいことです。カレー屋がひとつもない街より名店がいくつもあるほうがいい。でも終電までの少しの時間で四方山話がしたいだけなのに(できればチェーン店以外で)。ありすぎる選択肢に翻弄されるのも疲れます。自分たちが優柔不断なのがいけないんですが、もしこの街がさっき聞いた音楽のように「ちょうどいい」感じだったらなあとも思っていました。

その、結局どこでもいいのになんだかんだで迷っている時間のことが寝て起きても心に残っていて、じゃあちょうどいい感じの街ってたとえばどこかと考えるうち、そもそも「ちょうどいい」ってなんだろうかとというところにまで潜りまして、今回のこのコレになります。

いきなりですが、神社で汲んだひしゃくの中の水が何ミリリットルだとか、乗った電車の自分と同じ一両の中にひとが何人いるとか、わかりますか?ぼくの場合は、片手で軽々持てるくらいの水ならペットボトルに移せばだいたいわかる。ちょっとした大人数ならよく知ったライブハウスに詰め込めばだいたいわかる。けど、初めて使った桶になみなみと水を注いでも何ミリリットルなのかわからないし、毎日乗る山手線の一両にどれだけ人が入るのかは知りません。自分で測ったり数えたりするか、その結果を数字で見るかしないと数なんてわからない。ましてやそれがどのくらいかを数を使わずに誰かと共有するなんて至難の技です。

よく言われる説で、人間が数を数えず反射的に認識できる数は3つまでというのがありまして。たとえば漢字だと、一、二、三までは線が増えるだけ、四からいきなり違う形にになる。ローマ数字もⅠ、Ⅱ、Ⅲ、線が増えるだけ、Ⅳからいきなりこの感じ。

確かに線が横に縦に4本並んでたら書くのも見るのもごちゃごちゃ。ましてや7個くらいのものが整理されずにバラバラっと置いてあったとして、いちにーさんしーと数えずにぴたりとあてるのは難しい。豆とかで想像してみてください。7個の豆。まあわからなくないか?でも12個なんてもってのほか。12個の豆と13個の豆の違いなんか数えて初めてわかる。

でも、数を使うと7たす13が20だってことまですぐにわかる。数えれば計算することもできる。もし数えないならば、つまり暑い眠い寒いを判断するようなカラダの感性で数を測るならば、モノが3つより多くあるってのはもう「わからん」「もっとわからん」「ぜんぜんわからん」てことです。ましてや山手線の一両なんて。あとでそれを500人(わからなさすぎるのでほんとにてきとうに500人)とか聞いて、ほほう。とか言いながら納得したような感じがするのは、数という道具をアタマにインストールしたからで、そんなものなしのカラダはワンツースリーの段階で最初のストップをかけているのかも。

数で数えないと、ぼくらは普段あたりまえに遭遇するモノの量さえきっちりと共有することができない。じゃあその「数える」っていうことをどうやって身につけたかというと、もうそれは言い伝えです。数を発明した人がいて、それが伝わりに伝わって学校なりで習うことができたから数を知ってるわけで、数を習わなければ手の指を全部使っても10、足が加勢して20。そもそもその方法も自分で思いつけるかどうか。「何歳?」って聞かれて「筋肉痛が次の日に来なくなった」とか答えるしかない人生だったかもしれない。

これがまあ、ぼくら文明的な人類ってやつなので、数を使ってあまたの(漢字で書くと数多の)モノを数えることができますね。気付けばたくさんの物量をぴったりと「数で」把握することができるようになり、4000万円の家を買ったり、108円の手数料をケチったり、1年ごとに自動更新のプランで携帯の契約をしたり、何十億人の食糧問題を案じたりできるわけだから、数を使うってすげーっす。

でもでもやっぱり、5424円と4687円の違いってなに?と聞かれて気持ちの良い答えを返せるひとはいないと思う。ざっと見て7〜800円くらい違うなっていうのはわかるけど、じゃあそれってどういうことって聞かれても、高校生の時給くらいだねとかそこそこのランチぐらいだねとかそんな感じがせいぜいです。数の話は数の話だもん。ほんとのほんとにカラダが把握してすっきり気持ちよく扱える数なんて、3は言い過ぎにしても10とかそのくらいまでじゃないかなって思います。ローンを組んで4000万円を払う人の中で、支払いにかかる何十年っていう数字が自分の身にとってどんなものなのか。「仕方ない」とか「決まってるから」という言葉を使わずに説明できる人はどれだけいるでしょうか?

ごはんを食べに行って、回鍋肉もガパオも蕎麦もラザニアもビーフンもジャークチキンもクスクスもサムギョプサルも頼む人はいないし、もしお呼ばれした食卓にこれだけ揃ってたら食べきれないって一瞬でわかる。自分ひとりでは余る、こんなにはいらないってわかる、そんなふうなカラダのままで家なんかどうやって買うの?と思ってしまいます。じゃあ、家を買うことを、戦闘機を買うことを、どうやって自分のものさしで測れば買えるんでしょうか?「わかるけど」という意見もわかります。でもなんかもやもやします。で、なんとかスッキリしたくて「ちょうどよく買う」なんて言葉を考える。さらに「買う」ということを「お金を使って所有する」というふうに言い換えてみると、「ちょうどいい所有」という言葉ができて、それを気持ちの中に置いてみたりして。

閑話休題。音楽のライブに行ったことがない、CDも持ってないけど、すごく大好きな音楽を作る人はいますか? YouTubeでしか聞かない、死ぬほど大好きな音楽はありませんか?ぼくにはあります。では、その音楽を使った人は、どうやってお金を稼いで生活しているかというと、CDやライブやグッズの利益、それが足りなければ他の仕事なりで稼ぐわけです。

AppleMusicってご存知でしょうか? 月額ナンボで登録のある音楽が聞き放題らしく、聞ければいいならたくさんのCDを買う必要がなくなる、持ち運ばなくて済む、大変便利でものすごい配信システムなのですが、ぼくのバンドの音楽の一部も聞けるみたいなんですね。突き詰めて考えれば音楽を売るということ自体が不思議なことではありますが、ミネラルウォーターに値段がつくのは「ろ過したり、いい水を汲んで運んできたり、ペットボトルに入れたり、そういった経費だ」と説明すれば「まあ、そういうもんか」と思う。服の値段は布代だけではありません。そんなようにして、人があつまって音楽を作るのにかかった労力と時間分の人件費だと思うとわからなくはない

お金を払ったりもらったりすることに敏感な人であれば、音楽にお金を払うというのはその作り手にお金を払うことだ、というところには気付くとは思うのですが、もしAppleMusicでぼくの音楽をいくら聞いてもたぶんぼくには一銭も入ってこないんですね。お金を払った人は音楽にお金を払っているつもりでいると思いますが、ぼくは自分の曲がそこに登録されてることも知らなかった。たぶんCDを出してくれた会社がOKを出して登録したのでしょう。大きな会社に所属してる音楽の作り手たちにはお金が分配されるでしょう。でもそれが「どれだけ聞かれたか」「どれだけ愛されたか」とは関係なく配分されているとしたら、水に値段がつくよりもさらに音楽の値段ってぼんやりしてますよね。ぼくらみたいなバンドは、数え切れないほど売れてるわけでもないCDを買ってもらえなくなるぶん、家賃のために他の仕事に行く。このまま今後何十年とAppleMusicが続くと、数多くの人には知られていないけれどどこか骨のある音楽を作る人が、どんどん音楽でお金を稼げなくなるのかもな、と思います。それは人類にとっては、待ち望んだ平等で素晴らしい未来の到来かもしれません。そんな時代でもわかりやすく突き抜けた天才は音楽でお金を稼ぐでしょうし、お金を稼げないのは才能がないからだと言う人がほとんどでしょう。

みんなが大好きになっちゃうような大衆的な天才でなくても、隅っこのほうで骨太な音楽を作る人も音楽でお金を稼いでいた時代があって、そんな時代に残された「人生を賭けた愛の告白のようにぶっとんだ、誰にでもわかるわけではないもの」や「台所からの音のようにあまりにも平凡ながら、とても愛しいモノ」は、しっかりとAppleMusicに残っています。今、そんな感じの音楽を作る人は、ほとんどが他の仕事をしています。あまり売れていない、しかし過去のそれに決して引けを取らないスペシャルたちは、これから先、何十年後のAppleMusicに登録されているでしょうか? テクノロジー、システムの発展は、たとえば人類のひとりであるぼくの腹減ったや眠いや寒いに寄り添っていくのでしょうか。

日本はたとえば高度経済成長のときは成長すればするだけいいと思っていましたが、その発展の果てにいまも原発があったり、好きな子の家電にかけるドキドキがなくなってたりすると思うと、果たしてなんのために技術が進歩したのか、だれかの言葉を借りずに説明できる人はほとんどいない気がする。なんとかできるか、あまりにも自分の手には余る話ですが、なんとかしないと、ことによっちゃ、あんまり良い気分じゃない未来があるかもなって思います。

ぼくらがなにかやめたり、なにかをすることにしたり。ものごとを決めるとき、「ちょうどいい」で止められるのは、自分ひとりのバランス感覚です。

それが、自分ひとりの範疇を越えたところになってくると、ありすぎてもやりすぎてもこれ以上必要ないよと止められずに膨らみ続けるものがある。

たしかに、ちょうどいいにはわかりやすい刺激や驚きがありません。でも、「人生を賭けた愛の告白のようにぶっとんだ、誰にでもわかるわけではないもの」や「台所からの音のようにあまりにも平凡ながら、とても愛しいモノ」に、ほんとうに刺激や驚きがないわけではない。

じゃあどうしてこうなってるのだろーか。と、不思議な気分で、ドンキホーテで充電器を買ったり、ついでにアイスも買ったり、そいつを食べながら充電したiPhoneでこんな文章を書いたりしております。

前に DAYZ. をつうじていただいたおいしすぎる気合豆腐は、麻婆豆腐にすると豆腐の味が強すぎてよくわかんなくて、肉どうふやひややっこや湯豆腐で食べると最高でした。食材にも適所があるよねー。そのくらいならわかるんだけど。「そのくらいならわかる」から全部のことを積み上げていけばいいだけのような気がするんだけど。そんなに難しいことなのでしょうか。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

先日下北沢でごはんを食べることになりまして。友達と仕事の後ライブを見たあとだから軽くくっちゃべろうよってことで、どこでもなんでもよかったんですが、折角ならなにか心湧くようなチョイスがいいよね、下北沢ならちょうどいいとこが見つかるはずよね、って思いもしながら歩いていて、そのせいでどこもはっきりぴったりこなくて冷え込む路地をうろうろ。結局もう歩くの嫌だしえいっと飛び込んだ店のトマト鍋が大正解だったのでなにも文句はないんですが、下北沢、メシ屋、多すぎませんか?カレーの名店からカレーの名店までの距離近すぎませんか?歩きながら気持ちの整理つけるだけでも大変!

選べるってことは、コンビニとファミレスくらいしか夜のあかりがないぼくんちのまわりからしたらいいことです。カレー屋がひとつもない街より名店がいくつもあるほうがいい。でも終電までの少しの時間で四方山話がしたいだけなのに(できればチェーン店以外で)。ありすぎる選択肢に翻弄されるのも疲れます。自分たちが優柔不断なのがいけないんですが、もしこの街がさっき聞いた音楽のように「ちょうどいい」感じだったらなあとも思っていました。

その、結局どこでもいいのになんだかんだで迷っている時間のことが寝て起きても心に残っていて、じゃあちょうどいい感じの街ってたとえばどこかと考えるうち、そもそも「ちょうどいい」ってなんだろうかとというところにまで潜りまして、今回のこのコレになります。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

いきなりですが、神社で汲んだひしゃくの中の水が何ミリリットルだとか、乗った電車の自分と同じ一両の中にひとが何人いるとか、わかりますか?ぼくの場合は、片手で軽々持てるくらいの水ならペットボトルに移せばだいたいわかる。ちょっとした大人数ならよく知ったライブハウスに詰め込めばだいたいわかる。けど、初めて使った桶になみなみと水を注いでも何ミリリットルなのかわからないし、毎日乗る山手線の一両にどれだけ人が入るのかは知りません。自分で測ったり数えたりするか、その結果を数字で見るかしないと数なんてわからない。ましてやそれがどのくらいかを数を使わずに誰かと共有するなんて至難の技です。

よく言われる説で、人間が数を数えず反射的に認識できる数は3つまでというのがありまして。たとえば漢字だと、一、二、三までは線が増えるだけ、四からいきなり違う形にになる。ローマ数字もⅠ、Ⅱ、Ⅲ、線が増えるだけ、Ⅳからいきなりこの感じ。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

確かに線が横に縦に4本並んでたら書くのも見るのもごちゃごちゃ。ましてや7個くらいのものが整理されずにバラバラっと置いてあったとして、いちにーさんしーと数えずにぴたりとあてるのは難しい。豆とかで想像してみてください。7個の豆。まあわからなくないか?でも12個なんてもってのほか。12個の豆と13個の豆の違いなんか数えて初めてわかる。

でも、数を使うと7たす13が20だってことまですぐにわかる。数えれば計算することもできる。もし数えないならば、つまり暑い眠い寒いを判断するようなカラダの感性で数を測るならば、モノが3つより多くあるってのはもう「わからん」「もっとわからん」「ぜんぜんわからん」てことです。ましてや山手線の一両なんて。あとでそれを500人(わからなさすぎるのでほんとにてきとうに500人)とか聞いて、ほほう。とか言いながら納得したような感じがするのは、数という道具をアタマにインストールしたからで、そんなものなしのカラダはワンツースリーの段階で最初のストップをかけているのかも。

数で数えないと、ぼくらは普段あたりまえに遭遇するモノの量さえきっちりと共有することができない。じゃあその「数える」っていうことをどうやって身につけたかというと、もうそれは言い伝えです。数を発明した人がいて、それが伝わりに伝わって学校なりで習うことができたから数を知ってるわけで、数を習わなければ手の指を全部使っても10、足が加勢して20。そもそもその方法も自分で思いつけるかどうか。「何歳?」って聞かれて「筋肉痛が次の日に来なくなった」とか答えるしかない人生だったかもしれない。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

これがまあ、ぼくら文明的な人類ってやつなので、数を使ってあまたの(漢字で書くと数多の)モノを数えることができますね。気付けばたくさんの物量をぴったりと「数で」把握することができるようになり、4000万円の家を買ったり、108円の手数料をケチったり、1年ごとに自動更新のプランで携帯の契約をしたり、何十億人の食糧問題を案じたりできるわけだから、数を使うってすげーっす。

でもでもやっぱり、5424円と4687円の違いってなに?と聞かれて気持ちの良い答えを返せるひとはいないと思う。ざっと見て7〜800円くらい違うなっていうのはわかるけど、じゃあそれってどういうことって聞かれても、高校生の時給くらいだねとかそこそこのランチぐらいだねとかそんな感じがせいぜいです。数の話は数の話だもん。ほんとのほんとにカラダが把握してすっきり気持ちよく扱える数なんて、3は言い過ぎにしても10とかそのくらいまでじゃないかなって思います。ローンを組んで4000万円を払う人の中で、支払いにかかる何十年っていう数字が自分の身にとってどんなものなのか。「仕方ない」とか「決まってるから」という言葉を使わずに説明できる人はどれだけいるでしょうか?

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

ごはんを食べに行って、回鍋肉もガパオも蕎麦もラザニアもビーフンもジャークチキンもクスクスもサムギョプサルも頼む人はいないし、もしお呼ばれした食卓にこれだけ揃ってたら食べきれないって一瞬でわかる。自分ひとりでは余る、こんなにはいらないってわかる、そんなふうなカラダのままで家なんかどうやって買うの?と思ってしまいます。じゃあ、家を買うことを、戦闘機を買うことを、どうやって自分のものさしで測れば買えるんでしょうか?「わかるけど」という意見もわかります。でもなんかもやもやします。で、なんとかスッキリしたくて「ちょうどよく買う」なんて言葉を考える。さらに「買う」ということを「お金を使って所有する」というふうに言い換えてみると、「ちょうどいい所有」という言葉ができて、それを気持ちの中に置いてみたりして。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

閑話休題。音楽のライブに行ったことがない、CDも持ってないけど、すごく大好きな音楽を作る人はいますか? YouTubeでしか聞かない、死ぬほど大好きな音楽はありませんか?ぼくにはあります。では、その音楽を使った人は、どうやってお金を稼いで生活しているかというと、CDやライブやグッズの利益、それが足りなければ他の仕事なりで稼ぐわけです。

AppleMusicってご存知でしょうか? 月額ナンボで登録のある音楽が聞き放題らしく、聞ければいいならたくさんのCDを買う必要がなくなる、持ち運ばなくて済む、大変便利でものすごい配信システムなのですが、ぼくのバンドの音楽の一部も聞けるみたいなんですね。突き詰めて考えれば音楽を売るということ自体が不思議なことではありますが、ミネラルウォーターに値段がつくのは「ろ過したり、いい水を汲んで運んできたり、ペットボトルに入れたり、そういった経費だ」と説明すれば「まあ、そういうもんか」と思う。服の値段は布代だけではありません。そんなようにして、人があつまって音楽を作るのにかかった労力と時間分の人件費だと思うとわからなくはない

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

お金を払ったりもらったりすることに敏感な人であれば、音楽にお金を払うというのはその作り手にお金を払うことだ、というところには気付くとは思うのですが、もしAppleMusicでぼくの音楽をいくら聞いてもたぶんぼくには一銭も入ってこないんですね。お金を払った人は音楽にお金を払っているつもりでいると思いますが、ぼくは自分の曲がそこに登録されてることも知らなかった。たぶんCDを出してくれた会社がOKを出して登録したのでしょう。大きな会社に所属してる音楽の作り手たちにはお金が分配されるでしょう。でもそれが「どれだけ聞かれたか」「どれだけ愛されたか」とは関係なく配分されているとしたら、水に値段がつくよりもさらに音楽の値段ってぼんやりしてますよね。ぼくらみたいなバンドは、数え切れないほど売れてるわけでもないCDを買ってもらえなくなるぶん、家賃のために他の仕事に行く。このまま今後何十年とAppleMusicが続くと、数多くの人には知られていないけれどどこか骨のある音楽を作る人が、どんどん音楽でお金を稼げなくなるのかもな、と思います。それは人類にとっては、待ち望んだ平等で素晴らしい未来の到来かもしれません。そんな時代でもわかりやすく突き抜けた天才は音楽でお金を稼ぐでしょうし、お金を稼げないのは才能がないからだと言う人がほとんどでしょう。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

みんなが大好きになっちゃうような大衆的な天才でなくても、隅っこのほうで骨太な音楽を作る人も音楽でお金を稼いでいた時代があって、そんな時代に残された「人生を賭けた愛の告白のようにぶっとんだ、誰にでもわかるわけではないもの」や「台所からの音のようにあまりにも平凡ながら、とても愛しいモノ」は、しっかりとAppleMusicに残っています。今、そんな感じの音楽を作る人は、ほとんどが他の仕事をしています。あまり売れていない、しかし過去のそれに決して引けを取らないスペシャルたちは、これから先、何十年後のAppleMusicに登録されているでしょうか? テクノロジー、システムの発展は、たとえば人類のひとりであるぼくの腹減ったや眠いや寒いに寄り添っていくのでしょうか。

日本はたとえば高度経済成長のときは成長すればするだけいいと思っていましたが、その発展の果てにいまも原発があったり、好きな子の家電にかけるドキドキがなくなってたりすると思うと、果たしてなんのために技術が進歩したのか、だれかの言葉を借りずに説明できる人はほとんどいない気がする。なんとかできるか、あまりにも自分の手には余る話ですが、なんとかしないと、ことによっちゃ、あんまり良い気分じゃない未来があるかもなって思います。

ぼくらがなにかやめたり、なにかをすることにしたり。ものごとを決めるとき、「ちょうどいい」で止められるのは、自分ひとりのバランス感覚です。

ニューユタカ #006「ちょうどいい」

それが、自分ひとりの範疇を越えたところになってくると、ありすぎてもやりすぎてもこれ以上必要ないよと止められずに膨らみ続けるものがある。

たしかに、ちょうどいいにはわかりやすい刺激や驚きがありません。でも、「人生を賭けた愛の告白のようにぶっとんだ、誰にでもわかるわけではないもの」や「台所からの音のようにあまりにも平凡ながら、とても愛しいモノ」に、ほんとうに刺激や驚きがないわけではない。

じゃあどうしてこうなってるのだろーか。と、不思議な気分で、ドンキホーテで充電器を買ったり、ついでにアイスも買ったり、そいつを食べながら充電したiPhoneでこんな文章を書いたりしております。

前に DAYZ. をつうじていただいたおいしすぎる気合豆腐は、麻婆豆腐にすると豆腐の味が強すぎてよくわかんなくて、肉どうふやひややっこや湯豆腐で食べると最高でした。食材にも適所があるよねー。そのくらいならわかるんだけど。「そのくらいならわかる」から全部のことを積み上げていけばいいだけのような気がするんだけど。そんなに難しいことなのでしょうか。

藤原 亮 / Ryo Fujiwara
ギターを弾いて歌うひと

2004年に結成した東京在住のパンクバンド・フジロッ久(仮)← ふじろっきゅうかっこかり のボーカル・ギタリスト。2013年11月、フジロッ久(仮)の2nd アルバム「ニューユタカ」2015年9月にはニューシングル「おかしなふたり」をリリース。ほか、永原真夏+SUPER GOOD BAND のギター担当。

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